徳島県鳴門市には、第一次世界大戦時に青島で降伏したドイツ兵捕虜を収容する「板東俘虜収容所」がありました。
▼現在の板東俘虜収容所(google mapより)
▼板東俘虜収容所の変遷を記した図(鳴門市ドイツ館Ruhe第三号より)
▼昭和二十二年の元板東俘虜収容所
俘虜収容所の近くに「バルトの庭」という施設があります。
こちらの施設は、映画『バルトの楽園』(2006)のセットを移築したもので、入場料を払えばガイドをつけて案内してくれます。残念ながら現在は休業中です。
▼忠実に再現された収容所の門柱
▼早く再開してくれないかな…
板東俘虜収容所跡地は現在板東公園として整備されています。
▼公園入口
公園の入り口は、本来の通用門ではありません。
▼本来の正門の位置
正門から入って、収容所の東側から周っていきたいと思います。
▼兵舎の基礎が残っています。バラッケ(die Baracke "仮兵舎"の意)一棟の長さは大体七十一米だったようです。
この基礎の部分と、団地の建物を足した長さが大体一棟分の長さでしょうか。
西側の1~4棟跡は現在宅地になっており、何も残っていません。
▼給水塔と手水場
給水塔は、第二次大戦後に引揚者の住居になった際に使われていたものです。かの板東英二も満州から徳島に帰ってきた後は、徳島商業高校卒業までこの地で暮らしました。
▼パン屋跡地
▼第一給水施設
▼酒保付属厠
茶色いのはうちの犬です。
▼捕虜が水泳や船遊びに興じた池
▼俘虜の慰霊碑()
▼俘虜の慰霊碑(1919年建立)
▼日独友好を記念してヴェストファーレン州から菩提樹が贈られました。
▼賀川豊彦記念館の外観は伝統的な木組みの家(Fachwerkhaus)です。
こちらは船本牧舎をモデルに建てられました。
▼ドイツ兵俘虜の生活や日独の交流は、ドイツ館にて詳しく知ることができます。
▼こちらの土産物館は当時のものです。
▼元々は民間に払い下げられたものでしたが、こちらに移築されました。
▼徳島県板野郡板東町はヴェートーベンの交響曲第九番、日本初演の地なのです。
徳島駅の近くには、「松江所長の住居跡」という碑がたっています。
西国第12番札所の吉祥寺の近くに、ドイツ関連の記念碑がありました。かなり風化しており、ほとんど読めません。拓本を早めに取った方がいいかも…
▼吉祥寺の手前にある石碑
▼野末にぽつんと立っています。
▼正面
「ドイツ帰郷紀(念)トシテ
〇〇〇〇〇〇
(松)浦正茂 」( )内は予想
▼側面
「大正十四年〇〇」
ドイツ兵が建てたものではないと思いますが、どうでしょう。
場所は
ここです。
俘虜収容所から撫養街道を渡ると、ドイツ兵捕虜が建てた牧舎があります。
▼旧富田畜産部牧舎です。賀川豊彦記念館のモデルになりました。
▼建造されてから、もうじき百年になります。
文化庁のサイトによれば、この建物は南西隅を突出したL字型平面の建物で,西半が大正6年,東半が同8年の増築である。1階煉瓦造,2階真壁造の混構造になり,トラス小屋組で桟瓦葺屋根を架ける。牛などの牧舎用途の他,食品加工も行われた。ドイツ人の設計・施工になるという稀少な農業施設。
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/184333
▼こちらは椎尾谷にある収容所のバラッケ。
トタンが張られてアルミサッシの窓枠が付いている以外は、外観はあまり変わっていません。
▼民間に払い下げられたもので、全長が二十八米あります。
こちらへ行かれる時は車で行った方が良いと思います。
途中で野犬の群れに追いかけられてエラい目に遭いました。
俘虜が残した建築物は他にもあります。
本国への帰国を前にした俘虜たちが記念に残していったものです。
▼めがね橋
▼ドイツ橋
▼板東谷川の下流の方にも大めがね橋がありますが、当然これは平成に入ってから造られたものです。
板東俘虜収容所とは関係ありませんが、近所にシベリア還りの方が黒パンを焼いておられるというパン屋があります。
▼入口です。
シベリアと板東、比べる由もありませんが、時代と場所が違うと、こうも人間の扱い方が違うのかと驚かされます。
参考文献
・鳴門市ドイツ館発行『ドイツ館館報Ruhe』第三号。
ご協力頂きました皆様どうもありがとうございました。