京都府舞鶴市瀬崎の博奕岬には明治年間に砲台が築かれ、陸軍の演習砲台として利用されていました。大東亜戦争が始まるとともに、海軍の警備隊によって高射砲が据えられ、防空砲台として機能するようになります。『昭和18年10月1日~昭和18年10月31日 舞鶴海軍警備隊戦時日誌』(アジア歴史資料センター C08030486800)によれば、ここには警備隊の本部が置かれ、七十七名の兵が防備に当たっていたようです。
岬の藪の中には、今でも明治中期~昭和初期にかけての遺構が多数存在します。
東舞鶴駅の二番乗り場から西大浦バスに乗り込み、終点の「瀬崎」まで向かいます。コミュニティバスは本数が少ないので帰りの便に注意してください。
▼西大浦バス東舞鶴駅~瀬崎間運賃七百円也。
▼瀬崎集落より博奕岬を望む。
岬の付け根にあたる箇所から軍道が伸びています。つづら折りの道を20分ほど登りますと灯台にたどり着きます。
▼山道
▼標柱
①灯台
▼大正年間に建てられた灯台。修復中。
百年近く日本海から吹き付ける風雪に耐えてきたこの灯台も、さすがに限界とあって、目下、外壁の張り替え工事がなされています。
灯台から北には自衛隊施設があるので、それを迂回して岬の端まで行きます。
▼森の中で水槽を発見。
▼尾根伝いに進んでいくと
▼「埋第五号」標柱
▼石柱が並んでいます。その先に
②すり鉢状の遺構
▼すり鉢状の遺構があります。
これはレーダーでしょうか高射砲でしょうか。あるいは探照灯を据えていたのか。
どなたかもしご存じでしたら教えてください。
▼「右〇界」
▼また水槽です。
▼崩れた階段を降りて行きますと
▼木造の小屋があります。これも自衛隊の施設でしょうか。あるいは兵舎の付属施設?
③弾薬庫
▼山の斜面にある弾薬庫
▼イギリス積み?フランス積み?
▼第三火薬廠で見たものと似ています。当時のものか。
▼弾薬庫の正面にあるコンクリートの基礎。
高射砲陣地でしょうか。
灯台の手前、岬の最高地点には観測所と指揮所らしき遺構がありました。
▼電柱の横の石柱が目印です。ここから登ります。
▼水槽があります。
▼少し行くと、コンクリートで舗装された窪地
▼これをくぐると
▼堡塁状の一角に出ます。
④指揮所kanレポート様より探照灯を格納する電燈所であることを教えて頂きました。ありがとうございました。
▼この山の部分を登れば、電燈所に出られます。
▼真ん中に大きな穴が空いています。注意。
電燈井というそうです。(kanレポート様より)
▼階段を降りると、舞鶴要塞ではお馴染みの遺構が。
▼奥の壁が破壊されています。
▼機械などが据えられていたか。
▼木製の机。めずらしい。
▼ここからサーチライトを昇降させたのでしょう。
▼堡塁の外側に「陸軍所轄地」標柱。明治中期のものか。
ここから山を軍道沿いに下ると、途中に分かれ道があります。
▼モノリスのような門柱
⑤
厨房(?)「発電所」であることを教えて頂きました。(kanレポート様より)
▼屋根は抜けています。
▼瓶があちこちに落ちています。
そこをさらに下っていきますと、棲息部にたどり着きます。
▼水槽
▼井戸?
⑥厠
▼べトンの便所が
▼折角なので用を足させて頂きます。この便所が使用されるのは果たして何十年ぶりか。
▼手前の壁に手形がいっぱい。こわい
▼また水槽
▼煉瓦積みの建物跡。
▼兵舎跡か。
他にも建物の跡らしきものがたくさんありましたが、写真に撮っているときりがないのでこの辺で。
▼あちこちに点在する「陸界」標柱
▼岬の東側の海岸に出ました。
ここから岩場を歩いて村の方に戻りました。
<<M氏の証言>>昭和6年生まれ 大丹生国民学校
戦争で父が応召を受けて、母と私だけで暮らしていかねばならなかった。砲台の便所に溜まった糞尿を肥として使うために、肥をかついで岬を行き来した。砲台からは兵隊が来て、大根や芋などの野菜を買いに来た。一個小隊ぐらいの人数はいただろうか。
<<T氏の証言>> 昭和7年生まれ 大丹生国民学校
ある日兵隊がトラックや自動車4、5台に分乗して岬にやってきた。村の防空壕は海岸から少し上がったところにある。村から出征していく人はお宮の前で壮行式をやって見送った。昭和20年くらいだったと思うが、B29が低空で来て田んぼにいた人を狙って機銃掃射をした。終戦になったが、みんな「うそじゃ。」と言うてなかなか信じなかった。
<<O氏の証言>> 昭和16年生まれ 大丹生国民学校
芦谷から博奕岬の方に続く軍道があり、バラスや砂を敷く工事に参加して金をもろうた人もおる。砲台建設の際にも、牛を飼うとる人は牛を使って建材を運んで儲けたようだ。或いは人力でセメント袋を運んだ人もおるようだ。
戦時中は、敵機が来ても砲台の兵隊はみんな逃げてしまうので、一機も落としていない。B29がよくやってきて、舞鶴湾に機雷などを投下するが、湾の幅が狭いのでほとんど山の方に落ちて行った。山の方の機雷を処理していた兵隊が死んだこともあったようだ。
戦後、進駐軍が回収した機雷を浜に並べていた。海岸には佃煮みたいな火薬がたくさん揚がってきて、それらの火薬でよく遊んだ。佃煮みたいな四角い火薬に火を着けると、「ブシューッ」といって空に飛びあがって面白かった。他にも小銃弾や砲台にあった廃材などの戦争の残骸が我々の遊び道具だった。一度、その火薬からでた火がわら束に燃え移って火事になりかけた。岬の高射砲の跡地でもよく遊んだ。戦争末期に砲台の貴重物資(クスリや米)を保管していた家の人がまるまるそれを手に入れて儲けて、金持ちになった人がおる。戦後のことだが、大陸に向かう輸送船が触雷して沈んで大勢亡くなった。
<<N氏の証言>> 昭和6年生まれ 大丹生国民学校
舞鶴には海軍の防備隊や警備隊、海兵団などがあった。防備隊が博奕岬の入り口で警備しており、船で浦入まできて、そこから上陸してきた。砲台の兵隊が野菜の買い出しにうちに来ていて、大根、かぼちゃ、ねぎを買っていった。お得意さんもできた。戦後にも2,3回来てくれた。正月にはもち米を買っていったが、砲台で餅つきをするということだった。たしか15、16歳ぐらいの少年兵がいた。
戦争が始まった時、小学校の5,6年生だったと思う。みんな「やったー」と喜んでいた。先生も「日本は絶対に勝つ」というようなことを言っていた。教育自体がそういうものだった。音楽の授業でも、「愛国行進曲」や「轟沈」などの軍歌を唄った。昭和20年7月の舞鶴空襲の際、敵機が低空で飛んできて、峠から突然現れて岬を機銃掃射した。低空で飛んでいたのは、恐らく岬の対空砲の俯角よりも低いところを飛んで、砲火を避けようとしたためか。そのため、高射砲もほとんど撃てなかった。その時に家や田んぼも撃ちまくられた。田んぼではよく機銃弾を拾った。小橋の方では定置網漁をしていた人が何人か撃たれて亡くなった。海軍の防備隊の石炭船が博奕港で機銃弾を受けて穴だらけになっていた。B29はほとんど毎日来襲して、よく警戒警報が出た。警戒警報が出ると、学校は休みになった。「中部軍情報、B2910機、紀伊半島方面より来襲。」という風にラジオで来襲が伝えられた。夏休みには繊維不足を補うために、竹を切ってそれを干して繊維にした。それで服をつくっていたようだ。大浦中学校の講堂には海軍陸戦隊が一個小隊ほど駐留していて、防空壕を掘っていた。それをみながら学校に通った。先生も応召で軍隊に行ってしまった。末期は警戒警報ばかりで、ほとんど学校に行かず。空襲警報はあまりなかった。だからほとんど勉強していない。この村から出征した人は30人ぐらいいたか。そのうちの6,7名が戦死している。終戦間際には、みんな応召されてしまい壮年の男はほとんどいなかった。8月15日は村のみんなで集まってラジオで聞いていたが、雑音ばかりでほとんどわからなかった。夏休みで学校もなかったので、これからどうなるか不安だった。
終戦後、砲台跡は自衛隊のレーダー基地になった。復員してきた先生はどういうわけか荒れていて、先生が女の子までビンタするので、女子生徒がストライキなどをやったこともあった。
▼村に残る軍人墓地
戦跡とは関係ありませんが、岬の近くには牧場があります。
雨宿りさせて頂きました。ありがとうございました。
▼ふるるファーム
▼ポニーと触れ合える。
今回ご協力いただきました皆様どうもありがとうございました。