現在の徳島空港は戦時中、昭和十三年から二〇年まで海軍航空基地として使用されました。瀬戸内海から吹き付ける潮風と塩害のため、松茂地区では稲作ができませんでした。そこで町を挙げて軍隊を誘致し、同地に飛行場ができました。
▼現在の徳島空港。第一格納庫前から北東方面
▼民間航空会社と陸自・海自が共同利用している空港です。全国でも珍しい。
管制は全て自衛隊の方が行っているという話です。
ちなみに「徳島阿波おどり空港」て変な名前ですね。地元の人にはかなり不評で、今まで通り「松茂空港」とか「徳島空港」と呼ばれているみたいです。
▼海軍時代の徳島基地(資料館の展示より)
飛行場の北西側上空から撮られたものでしょうか。格納庫などが確認出来ます。真ん中の川が今切川、一番上が旧吉野川です。
▼徳島海軍航空基地平面図()
▼現在の徳島空港
戦後、滑走路を延伸するために月見が丘海岸の北側部分が埋め立てられました。
▼二枚を重ねたもの。
道路などはそのまま使われているものが多い。
▼施設案内図(自衛隊基地内の記念館より)
▼松茂中学校前の交差点が航空隊の正門に当たります。
▼自衛隊の正門は海軍航空隊の敷地の東の端に当たります。
この辺は滑走路だったと思います。
▼機上作業練習機「白菊」
▼記念館に展示されている白菊のタイヤと座席
基地の様子に詳しい地元の方に話を伺うことができました。
<<B氏の証言>> 終戦時国民学校6年生
飛行場の正門付近には衛兵が立って警戒していた。施設の周りには囲いがしてあったが、滑走路などの境には今のようにフェンスはなく、入ろうと思えばいつでも入れた。飛行場東側の弾薬庫は、飛行機の機銃の弾道を調整する場所で、土嚢で作られた人口の小山に向かって機銃を撃っていた。海岸の方には爆弾を落とす目標が据えられていて、訓練で模擬爆弾を投下していた。月見が丘海浜公園の土手には、敵の上陸に備えて陸軍の兵士が壕を掘ってあり、空襲の際にはそこに避難した。現在の松茂のゴミ集積所には高射砲陣地があって、B29が上空を飛行している時に「ドーンッ」と盛んに射撃していたが、全く当たらずに悠々と通り過ぎて行った。空襲の際にはこの辺りもひどくやられて、飛行場の地上施設は全部焼けてしまった。
終戦後、弾薬庫の中の弾薬を処理するために、射撃場の広場に弾薬が集められて火がつけられた。「パパパパン、バババババン、シュー、ババババパパパンッ」とひっきりなしに機銃弾などが弾けていて危なかった。親には危ないから近寄るなと言われたが、焼けた後の薬莢や機械の部品を友達と拾いにいって、照明弾(曳光弾?)などを一杯拾った。処理できてなかった弾で怪我をした人もあった。三宝荒神社の方の機銃陣地の機銃弾は、神社の隣の池に捨てられていた。それらの一部は戦後に掘り返されたと思う。戦後に土地が払い下げになって、たくさんの人が入植してきた。ここいらの様子も大分変わった。
▼現在の地図に当時の飛行場の平面図を重ねたもの。(B氏の証言を基に加筆)
①射撃場付属弾薬庫
②着弾場跡(二十米ほどの土塁)
▼弾薬庫の前の道を東に進んだ所に存在しました。写真の奥の方です。
▼着弾場跡。現在は薩摩芋畑になっています。
たまに畑から機銃弾が出てくることがあるそうです。
③機銃陣地1
周囲を土嚢で囲んだ機銃陣地が、三つ(か四つ)南北に並んでいました。丁度黒いバンのある辺りか。
④機銃陣地2
▼三宝荒神社
▼敗戦後に機銃弾が投棄された池
池というよりは沼でしょうか。葛が上に生えているため、どのくらいの大きさかは分かりません。それにしても弾薬の処分の仕方がかなりいい加減です。
▼機銃陣地2のあった土手の方向
こちらには土手沿いに3つの機銃陣地があったようです。土手もなくなり、平らな畑になりました。何も残っていません。