徳島県鳴門市大麻町川崎には徳島海軍航空隊の送信所がありました。現在は宮崎椅子製作所の工場として利用されています。今回はご協力いただきありがとうございました。
▼送信所施設
▼昭和22年頃の送信所(中央)と水揚げ場(右下)
▼現在(平成16年)
航空隊送信所
▼送信所
①送信所門柱
②送信室/発電室
③④鉄塔跡
⑤送信所塀跡?
勝瑞境の北側に①の門柱跡があります。
▼電柱の隣がそうです。
▼一見普通の門柱にみえますが
▼中は煉瓦造りになっています
初めてみる形ですが、当時のものなんでしょうか。お話を伺う限りでは、門柱を移動させたという話はありません。
▼Y氏のスケッチ「送信所の門」
送信所の門はレールの付いた観音開きの扉だったようです。
②送信室
▼T字型のー部分です。
▼渡り廊下の屋根の痕が残ります。
今はありませんが、こちらにもう一棟あり、建物が丁度「干」の形をしていました。
▼T字の建物を後ろから
▼換気扇用の開口部から煉瓦が見えます。
こちらの建物ですが、鉄筋コンクリートではなく、木造煉瓦造りのモルタル仕上げだということが分かります。
▼送信室内部
▼正面入り口
②発電室
▼右側が戦後に増築された部分です。
③鉄塔跡
▼最近撤去されたようです。(5/22)
▼杭を打って動かそうとしたようですが、無理だったのでやめたそうです。
④鉄塔跡
⑤塀の一部
▼鉄筋入りのコンクリが塀の一部です。
航空隊水揚場
こちらは水揚げ場跡地です。日亜の工場が敷地を買い取ったようで、現在整備中でした。
地元の方の話によれば、海軍時代の施設は何も残っていないようです。
▼施設跡のようなものがありますが、戦後の専売公社時代のものかもしれません。
<<Y氏の証言>>終戦時、住吉国民学校4年生
家に疎開していた神戸から来た親戚が、送信所に勤めていた兵士と偶然知り合いだったので、送信所に遊びに行くことができた。親戚と一緒に遊びに行くと、無線の機械が壁づたいにずらりと並んでいた。その兵士は東北の出身だったが、この辺の人と結婚して所帯をもった。送信所の所長が竹笛を作りたいと言っていたので、うちに生えていた竹を切って持っていくと喜んでくれた。兵隊たちは主に手前の木造小屋で作業をしていた。送信所には他にも学校の勤労奉仕で赴き、送信所の周りの草刈りなどを行った。皆は送信所内に秘密兵器が隠されていると噂していた。昭和二〇年頃に、満州から南方へ行く大部隊が、船が空くまで住吉小学校に一時的に駐屯していたが、食料の配給が少なかったのか、うちの裏の池に手榴弾を投げ込んで魚を獲っていた。戦後に織物工場として稼働するまで、送信所内の備品(銅線など)がよく盗難にあっていた。
<<K氏の証言>>終戦時、住吉国民学校4年生
戦時中はあまり近づかなかったが、海軍の兵士は主に南側の木造建物で作業をしていた。送信室には何か秘密兵器(爆弾か毒ガス兵器)でも入っているのではないかと思っていた。戦争が終わり、送信所の周囲は小学校のイモ畑になった。住吉小学校(現藍住北小学校)の生徒が家から農具を持って行って耕作していた。海軍と入れ替わりで、進駐軍(おそらくイギリス軍)が送信所にやってきた。女の子は米兵に見つかると連れ去られたり、殺されたりすると聞いていたので、送信所の前を通るときはいつも目をつぶって走り抜けていた。畑で作業をしていると、笑いかけてきたので、こちらも笑うと何かいってきたが、英語なのでよくわからなかった。あるとき、門の前にたむろしていた連合軍の兵士に「コッチニキナサイ」と招かれ、友達と一緒に中を見せてもらった。兵隊にお菓子をもらったり、頭を撫でてもらったりして可愛がってわらった。進駐軍は全部で15~20人はいたが、そのうちの4、5人と仲良くなった。その後も何度か遊びに行ったが、終戦後しばらくするといつの間にか進駐軍はいなくなっていた。
水揚げ場は戦前からあったが、戦後はFという人が払い下げられたものを引き継いで管理していた。専売公社の工場があり、そこに水を引いていたと思う。最近F氏が亡くなり、水揚げ場も解体された。日亜の工場の敷地になったらしい。
▼水揚げ場跡地
▼送信所西側の溝。
高い方と低い方の両方とも送信所の遺構。農業用水路として利用されている。
<<S氏の証言>>終戦時、徳島農学校1年生
戦時中は、地元の有力者以外は送信所の敷地内に入ることができなかった。送信所の敷地は土地が少し低くなっているが、これは松茂の飛行場建設のために周囲の土を持って行ったからである。住吉小学校の生徒が動員されて、トロッコで送信所に土を集めて、トラックで飛行場まで土を持って行った。送信所内には海軍の兵士が10人前後いたように思う。開襟の軍服を着た見習い士官を何度か見た。
終戦後、発電室にあった巨大なモーターは大学の研究員が来て、徳大に運ばれた。農地が払い下げになり、東側の土地を買い上げた。銅線が畑の下を通っており、撤去するのに苦労した。鉄塔の基礎は最近撤去した(2016年5月)。鉄塔はあまり高くなかったが、三か所に建っていた。送信所からは一斗缶などをもらってきた。
<<K氏の証言>>昭和元年生まれ。終戦時、徳島第四十三連隊防空監視員
戦争が始まると、地元の青年団で防空監視任務にあたっていた。B29が京阪神地区を空襲しだした頃、他の監視哨で発見できた米軍機を見つけることができず、年長者に「何で板西の監視哨で見つけて、うちで見つからんのな!」と怒られた。
昭和十九年に入営し、青年団での防空監視の経験があったため、人手の足りない大阪方面に送られる。防空監視員の教育のためにの大阪城北西の盾津練兵場にて訓練を受け、同地の盾津飛行場にて防空監視任務にあたる。陸軍に所属していたが、海軍の飛行場で勤務した。大阪はよく空襲を受け、大阪城もよく攻撃された。戦争の終わり頃、ソ連が参戦する可能性があるということで、ソ連の飛行機なども識別できるように訓練を受ける。その後、四国南端の佐喜の浜にて防空監視任務にあたり終戦を迎える。善通寺で解散式をして復員。
送信所は戦後すぐに火事で焼けた。戦後に送信所の備品を持ち出しに来た人がガソリンと石油を間違え、揮発したガソリンに火が着き、建物の大部分が焼失した。
▼証言などをまとめると、送信所の施設は以下のようであったと思われます。
送信室の南側にあった建物は戦後の火事で焼失してしまいました。
▼施設概要(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011075800、航空隊 引渡目録 6/14 (防衛省防衛研究所)」)
このうち送信機室一棟と発電機室一棟が現存しています。
宮崎椅子製作所様、ご協力誠にありがとうございました。
http://www.miyazakiisu.co.jp/
並びに調査に協力していただいた皆様、誠にありがとうございました。