徳島海軍航空隊 営外宿舎
松茂町には、航空隊の宿舎が残っています。ほとんどの建屋が建て替えられていますが、いくつかの建物は当時のままの姿を残します。
ストリートヴュー
※誰も住んでいない建物のみを掲載しました。
▼一番状態の良い兵舎
▼「丙九〇號住宅」と書いてあります。
<<近所の方の証言>>
戦時中、飛行場の人員が増えたために、ここいらにも兵舎ができた。兵隊さんが大勢来て建てていた。住んでいたのは地上勤務者ばっかりだと思う。毎朝トラックが迎えに来て、荷台に乗せられて飛行場に向かっていた。兵舎の前にあった酒保によく兵隊さんがいて、飲み食いしていた。
戦後は払い下げられて、徳島空襲で焼け出された人や大陸からの引揚者などが住んでいた。今は、昔からの建物にはほとんど人が住んでいない。
▼酒保があったとされる四辻。丁度自転車の止めてある所。
徳島海軍航空隊 船溜まり
徳島市津田町は、古くから大阪方面への海運の拠点として多くの船が往来し、徳島の海の玄関口として栄えました。戦時中は、海軍航空隊の船溜まりとして利用され、海軍の内火艇などが停泊していました。現在遺構は何も残っていませんが、当時を知る人から話を聞くことができました。
▼津田港
ストリートビュー
<<F氏の証言>>昭和18年生まれ
津田の港で代々理髪店を営んできた。曽祖父の頃から入れると100年程になるか。海軍の船が停泊していたことは父から聞いた。昭和の初めごろは海運で非常に栄えていた。子供の時分は、海の水も大変きれかったので沖の洲まで泳いだりした。ほとんどの船は帆の付いた帆掛け船だった。大きな船は接岸せずに沖で泊まって、はしけで荷物を運んだ。船乗り相手の商売も多く、料亭で芸妓さんなどがペンペンと三味線を弾いていた。母から聞いた話では、私が津田の海岸を背負われて歩いている時に敵機の機銃掃射をうけた。搭乗員の顔が見えるくらいの低空飛行で突っ込んできた。しつこく撃ちまくられて這う這うの体で松林に逃げ込んだが、地元の人から「あんな目立つところを歩き周るけんじゃ。」と叱責される。沖の洲に軍隊関係の工場や造船所などがあったが、空襲で丸焼けになった。
戦後、進駐軍が津田から上陸用舟艇で上陸してきた。津田小学校には進駐軍の物資が貯蔵されていたが、地元の子供らが忍び込んで失敬していた。地元に英語のできるMという方がおり、英語で進駐軍とやり取りしていた。進駐軍兵士の髪を切って、代金をもらっていた。値段を伝える際には、同じ額の紙幣を見せてお金を払ってもらった。現在、昔の海軍時代の建物などは何も残っていない。
▼津田港から沖の洲方面
<<T氏の証言>>昭和11年生まれ。終戦時津田小学校4年。T氏は漁具点を営む。
昭和20年頃、米軍の艦載機が津田上空を旋回しており、友人が丘の上から白いハンカチを振ったところ、敵機がグオーーーーーッと急降下してきて、バリバリと撃たれたのが怖かった。空襲の際には、家の中に焼夷弾が7発落ちてきて、屋根を突き破って床下の基礎にまで刺さっていた。工場にも4発落ちたが、布団を被せて消火した。疎開先の神山では食うものがなくて困った。かぼちゃの善哉や蛙の焼いたのを食べて飢えを凌いだ。
戦争はやっぱりいかんと思う。戦争になった時に誰が割を食うのかよく考えた方がいい。
▼昭和初期の津田港
▼津田港の由来を記した碑文
▼昭和40年ごろの津田港
津田港の対岸には南海フェリーの乗り場があります。今も徳島への玄関口として多くの船が往来します。