福知山市石原の飛行場に行って参りました。
「開墾の碑文」
飛行場建設に際して、予科練習生の他、近隣の農民や朝鮮人労働者が動員されています。滑走路建設は、金網で地面を覆い、その上をコンクリートで舗装するというものでした。戦後、軍用地が払い下げられましたが、農耕を再開するためにまずこのようなコンクリを剥がして、金網を取り除くことから始めねばなりませんでした。この碑文には農民たちの並々ならぬ苦労が刻まれています。
当時の飛行場の範囲です(日吉コミュニティセンター内の説明版より)
まずは、戸田地区の有蓋掩体壕を探しに行きます。
格納庫があったと思われる場所です。跡形もありません。
北側の二つの有蓋掩体壕も見当たりません。
あの盛土は無蓋掩体壕の跡なのか、戦後のものなのか。
幸いにも当時を知るU氏から証言を得ることができました。U氏は現在92歳ですが、昭和18年当時20歳でした。農協青年部の部長として飛行場建設に協力しています。
話によれば、当時基地には紫電や飛燕(?)の部隊が展開しており、艦載機による空襲を何度も受けたようです。由良川の鉄橋が機銃掃射を受けた際に、米軍戦闘機の薬莢を拾ったそうですが(大きさからおそらく13mm機銃弾だと思われます)通りかかった憲兵に取り上げられてしまったそうです。 戦後、飛行場は米軍に接収されましたが、故障したグラマンが不時着した様子を目撃されたそうです。
肝心の戦争遺跡ですが、戦後の由良川の氾濫によって、土でできていた掩体壕や掘立の飛行場施設は大半が流されてしまいました。許可を得て、竹やぶの中を捜索しましたが、遺構らしきものは一切ありませんでした。
「交通安全碑文」
石柱が立っていますが、交通安全の文字だけ新しく彫られたようです。
裏には「昭和二年・・・」とあります。
「滑走路上を通る道路」
かつての滑走路上を道路が通っています。二車線ですが、道路幅は広く、今でも飛行機の発着ができそうです。
雉の声が響く長閑な土地です。
これは何かの遺構でしょうか。
いよいよ福知山飛行場のメイン遺構に向かいます。
藪の中にあり、見つけるのが大変でした。
航空指揮所跡です。
入り口は二つありますが、こちらの方は迷彩塗装が少し残っています。
中の様子です。貴重な蝙蝠の巣になっているらしいので、あまり荒らさないようにしましょう。
指揮所の中の無線機で航空隊と連絡を取っていました。
日吉コミュニティーセンターへ向かいます。
土地区にあった搭乗員待機所の一部です。
折角残しておくなら、もっと完全な形で残してほしかった・・・
いや、むしろよくぞこれだけでも残ってくれたというべきでしょうか。この待機所の一部を保存するためにも、並々ならぬ苦労があったと思われます。
行政に理解がなければ、東京都のように問答無用で破壊されてしまいます。更地にした後でパネルを立てるくらいなら、いっそ何も残さないか、完全に残す努力をすべきではないでしょうか。
戦後70年目を迎えて、戦争の記憶の伝承なることが言われていますが、戦争の記憶でなにより伝えていかねばならないのは、自身の住んでいる地域における戦争の記憶です。自分の住む村や町での出来事を知り、郷土の歴史を知ることは、自身の立ち位置と未来の進むべき方向を得ることになります。これは弓矢と同じで、弦をひかねば矢は飛んでいきません。その際弓を引くということは過去について知ると言うことに他ならず、弦を強く引けば引くほど、過去を知れば知るほど、矢は遠くへ飛んでいく、つまり未来への射程が開けるということになります。地域の歴史を知ると言うこと、これは文献資料のみならず、年寄りの証言、並びに実際の遺跡や道具を手がかりとしてなされるべきことでしょう。
折角70年も残っていた遺跡、過去を知る手がかりとしての遺跡をみすみす破壊するような愚行は看過できません。
「断面図」
砂利の多いコンクリ。直撃弾を受ければ一溜まりもない。
「東和酒造」さん
福知山唯一の酒屋さんです。女性杜氏の方が仕込んでおられます。
http://towa-shuzou.jp/
南の山側の無蓋掩体は一部残っているということなので、次回訪れたいと思います。