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京都大学戦争遺跡研究会(2015-2016)

 戦争遺跡研究会は、主に戦争の記憶を後世に継承するための活動に取り組んでいます。活動内容は、戦争体験者からの聞き取りに加え、所謂「戦争遺跡」と呼ばれる明治~昭和までの戦争に関する遺構の調査研究などを行っています。 当サイトでは研究会の活動で収集した資料の一部を公開しています。調査能力や専門知識に乏しいため、掲載している情報について事実誤認等があるかと思いますが、誤りを発見した際にはご指摘していただければ幸いです。それから、掲載している遺構の写真や体験者の証言は許可を得て掲載しているものですので、無断転載はご遠慮ください。 御用のある方はyukio0118(アットマーク)gmail.comに連絡下さい。 twitter @senseki3 2017年以降の活動はコチラ→ http://senseki.kyotolog.net/

下関要塞2 彦島砲台群:老ノ山砲台/ 筋山砲台/ 田ノ首砲台/ 彦島防空砲台

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下関要塞2 彦島砲台群:老ノ山砲台/ 筋山砲台/ 田ノ首砲台/ 彦島防空砲台

下関要塞第二弾です。

彦島地区には3つの対艦砲台と対空砲台が一つあったとされています。

▼彦島


老の山砲台

▼現在の老の山公園はかつて老の山砲台がありました。


▼公園の坂道を登っていくと、洞窟式砲台跡があります。


▼申し訳程度に残された砲台の一部


▼老の山砲台より日本海側


▼奥にまだ部屋があります。


筋山砲台

筋山「公園」とは言う条、藪に覆われた廃墟でした。

▼藪の中を進んでいくと、煉瓦片や瓦片が散乱しています。


▼石垣があります。


▼こちら側には兵舎などがありました。


▼六角形の井戸でしょうか。


この棲息区画を北の方に向かって斜面を登ると

▼砲座と弾薬庫にたどり着きます。


▼第一号砲台


▼第三号砲台


▼第五号砲台

いずれも金網が張られており、侵入できません。

▼動画です。


田の首砲台

筋山砲台より少し南に下ると、霊園がありますが、ここにもかつて砲台がありました。
遺構はほとんど残っていません。

▼霊園の手洗い場から少し階段を登ると、陸軍標柱があります。


ここから尾根伝いに進んでいきます。

▼そこから少し上ると二つ目の標柱
  

▼「大土」とはなんでしょうか。どなたか分かりませんか。
 

▼隣にある小さい方には赤い塗料が残っています。


▼最高地点です。人工的に丸く掘り下げられているようです。


日本海側が見えます。


▼そこから北側の尾根に沿って下っていくと、標柱がたくさん残っています。


 
二時間くらい山の中を彷徨いましたが、このぐらいしか見つかりませんでした。
田の首砲台
二丁目26-1の便所から登り、二丁目21-21付近に人工的な掘り込みがありました。
そのまま尾根伝いに尾根の分かれている二丁目26-1まで戻り、そこから二丁目28-67まで下りました。山中の26-1から28-67の間に多数の標柱が残っています。

彦島防空砲台(海軍山高射砲台)

彦島の南側にある彦島南公園の海岸には、突堤が残っています。この突堤は、かつて彦島南公園(海軍山)にあった高射砲台に物資を揚陸するために使用されたものです。

▼野球場から遊歩道を下りていくと、砂浜にたどりつきます。


▼突堤がみえます。


<<K氏の証言>>大正11年生まれ 佐世保海軍工廠勤務
 彦島の公園は地元では「海軍山」と呼ばれている。この突堤は昔はもっと長く、レールが敷いてあった。兵隊さんが大勢いて、山頂に兵舎と高射砲台をつくって空を警戒していた。防空壕も4つあったが、公園化する時に埋められた。
 兵役検査で身長不足(152cm以下)だったので、現役兵にはならず、佐世保の海軍工廠で工員として働いた。駆逐艦、巡洋艦などの軍艦や、輸送船なども造った。他にも重巡や大和、武蔵の修理などで忙しかった。レイテ沖海戦の後で大和が修理のために入渠したことがあったが、大きすぎてドックからはみ出していた。大分ひどくやられており、修理が大変だった。毎日宿舎から工廠まで通勤するとき、海沿いの山道を通るのだが、「大和の入港している海沿いを見ずに山を見て歩け」という命令が軍からだされた。まあ、守っている者はいなかった。大和と武蔵は日本海軍の秘密兵器だった。最後はあんな沈め方をしてほんとうにもったいない。大勢無駄に亡くなって本当に気の毒なことだ。

▼突堤は最近補修が行われたようです。
  
昔と比べると半分ほどの長さになっています。かつてはもう50メートルほど長かったようです。
船を横付けして物資を揚げて、トロッコでトンネルの中に運びました。レールの痕などはもうありません。山頂の兵舎跡などもありませんでした。

▼北側に似たような構造物があります。
 

▼突堤はトンネルに続いています。このトンネルは弾薬庫として使用されたようです。
  

▼短い方の突堤のトンネル。完全にふさがれています。


▼こちらは軍の遺構ではありませんが、江戸時代頃から舟屋があった名残だそうです。

 
ご協力ありがとうございました。

下関要塞3に続きます。
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