下関要塞第二弾です。
彦島地区には3つの対艦砲台と対空砲台が一つあったとされています。
▼彦島
老の山砲台
▼現在の老の山公園はかつて老の山砲台がありました。
▼公園の坂道を登っていくと、洞窟式砲台跡があります。
▼申し訳程度に残された砲台の一部
▼老の山砲台より日本海側
▼奥にまだ部屋があります。
筋山砲台
筋山「公園」とは言う条、藪に覆われた廃墟でした。
▼藪の中を進んでいくと、煉瓦片や瓦片が散乱しています。
▼石垣があります。
▼こちら側には兵舎などがありました。
▼六角形の井戸でしょうか。
この棲息区画を北の方に向かって斜面を登ると
▼砲座と弾薬庫にたどり着きます。
▼第一号砲台
▼第三号砲台
▼第五号砲台
いずれも金網が張られており、侵入できません。
▼動画です。
田の首砲台
筋山砲台より少し南に下ると、霊園がありますが、ここにもかつて砲台がありました。
遺構はほとんど残っていません。
▼霊園の手洗い場から少し階段を登ると、陸軍標柱があります。
ここから尾根伝いに進んでいきます。
▼そこから少し上ると二つ目の標柱
▼「大土」とはなんでしょうか。どなたか分かりませんか。
▼隣にある小さい方には赤い塗料が残っています。
▼最高地点です。人工的に丸く掘り下げられているようです。
日本海側が見えます。
▼そこから北側の尾根に沿って下っていくと、標柱がたくさん残っています。
二時間くらい山の中を彷徨いましたが、このぐらいしか見つかりませんでした。
田の首砲台
二丁目26-1の便所から登り、二丁目21-21付近に人工的な掘り込みがありました。
そのまま尾根伝いに尾根の分かれている二丁目26-1まで戻り、そこから二丁目28-67まで下りました。山中の26-1から28-67の間に多数の標柱が残っています。
彦島防空砲台(海軍山高射砲台)
彦島の南側にある彦島南公園の海岸には、突堤が残っています。この突堤は、かつて彦島南公園(海軍山)にあった高射砲台に物資を揚陸するために使用されたものです。
▼野球場から遊歩道を下りていくと、砂浜にたどりつきます。
▼突堤がみえます。
<<K氏の証言>>大正11年生まれ 佐世保海軍工廠勤務
彦島の公園は地元では「海軍山」と呼ばれている。この突堤は昔はもっと長く、レールが敷いてあった。兵隊さんが大勢いて、山頂に兵舎と高射砲台をつくって空を警戒していた。防空壕も4つあったが、公園化する時に埋められた。
兵役検査で身長不足(152cm以下)だったので、現役兵にはならず、佐世保の海軍工廠で工員として働いた。駆逐艦、巡洋艦などの軍艦や、輸送船なども造った。他にも重巡や大和、武蔵の修理などで忙しかった。レイテ沖海戦の後で大和が修理のために入渠したことがあったが、大きすぎてドックからはみ出していた。大分ひどくやられており、修理が大変だった。毎日宿舎から工廠まで通勤するとき、海沿いの山道を通るのだが、「大和の入港している海沿いを見ずに山を見て歩け」という命令が軍からだされた。まあ、守っている者はいなかった。大和と武蔵は日本海軍の秘密兵器だった。最後はあんな沈め方をしてほんとうにもったいない。大勢無駄に亡くなって本当に気の毒なことだ。
▼突堤は最近補修が行われたようです。
昔と比べると半分ほどの長さになっています。かつてはもう50メートルほど長かったようです。
船を横付けして物資を揚げて、トロッコでトンネルの中に運びました。レールの痕などはもうありません。山頂の兵舎跡などもありませんでした。
▼北側に似たような構造物があります。
▼突堤はトンネルに続いています。このトンネルは弾薬庫として使用されたようです。
▼短い方の突堤のトンネル。完全にふさがれています。
▼こちらは軍の遺構ではありませんが、江戸時代頃から舟屋があった名残だそうです。
ご協力ありがとうございました。
下関要塞3に続きます。