三重県の神島にある監的哨を見に行きました。
英虞湾の眺めです。
神島は三重県の最東端、伊勢湾の入り口に位置する小島です。古来より船頭歌に「阿波の鳴門か音戸の瀬戸か伊良湖度合が恐ろしい」と謡われるほどの航海の難所に位置しています。神島の灯台が、夜間に航行する船のために暗礁を照らすようになったのは明治になってからのことです。
今回訪問した神島観測所(監的哨)は、この神島灯台の近く、灯明山の山頂付近にあります。ここは三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台となったことから一躍有名になりました。
鳥羽は中之郷から、連絡船で神島に向かいます。海はなかなかの荒れようで、普段船に乗らない私はすっかり参ってしまい、早くも日本三海門の洗礼を受けることになりました。
『潮騒』でも描かれていた鵜による糞害
神島は伊勢湾口の要衝にあるため、多くの戦争遺構がありました。『三重の戦争遺跡』(三重県歴史教育者協議会、2006年)によれば、監的哨以外にも①特設見張り所②平射砲台③機銃砲台④防御陣地⑤防空壕⑥揚陸場⑦防空壕などがあったようです。
右手の山の中腹に二基の平射砲が並んでいました。護岸工事により埋没してしまったそうです。ここには、航空戦艦『伊勢』の改装時に降ろされた十四糎砲が置かれる予定だったとあります。
「のもも平家や。」という地元の老婆の話では、戦時中、伊良湖の方から「どーん、どーん」という物凄い砲撃音が聞こえていたということです。
「青石」
神島では良質の青石がたくさん採れます。「きれいですね。」と言って小さな青石のかけらを拾い上げたところ、「この島の青石は持ち出してはいかんことになっとる。」と釘をさされました。文字通り神のおわす島である神島は、全島がいわば聖域です。古来から島のものを傷つけたり持ち出したりすることは禁忌でした。今でも島民の信仰が残っているのです。
「神島灯台」
神島の灯台は、夜間に伊良湖水道の暗礁を照らすために据えられました。
神島灯台から伊良湖方面を望む。伊勢湾に向けて大型の船舶が航行しています。この神島と伊良湖の砲台から水道を通る敵艦船を挟撃するつもりでした。
「灯台宿舎裏防空壕」
灯台に続く階段の途中、開けた場所にはかつて灯台守の宿舎がありました。この裏手の山の斜面に防空壕が残されています。ほとんど閉塞していましたが、入り口の小ささに比べると、中は非常に広いようです。
「神島観測所(監的哨)」
いよいよ監的哨に到着しました。道中は遊歩道として整備されているとはいえ、高低差の激しい山道です。本当に疲れました。遺構は観測施設と四本の標柱、そして二本の無線鉄塔があるということですが。
「施設入り口に移された東側の陸軍用地の標柱」
4つのうち3つは確認できました。しかし遊歩道として整備された結果、西側の二つはそのままですが、東側の標柱のひとつが施設の入り口に移されています。
「西側の二つの標柱」
中に入ってみたいと思います。
伊良湖岬がよく見えます。
久保新治が焚き火をしたであろう炉の跡。
大便器のみが現存する便所跡。この木の戸も当時のものだというが、結構新しいもののように見えます。
この下にあった防空壕は塞がれていた。
倒壊した無線鉄塔跡を探しましたが、どこにも見当たりませんでした。観光地として整備された際に撤去されてしまったのでしょうか。
下は崖です。
小・中学校付近の浜にあるカルスト地形。凄い。
「古里浜の大岩」
この古里浜にも「揚陸場」「打越陣地」「東田陣地」などの防御陣地があったようですが、船の出発時間が迫っていたので断念しました。
「打越陣地」
右手の山の斜面に未完成の掘り込み式陣地があるようです。
古里浜南東で交通壕らしきものを見つけましたが、どうなんでしょう。
内部の様子です。
「井戸之上防空壕」
井戸之上にある防空壕です。入り口は立派なコンクリートで、軍用に見えますが民間用です。所有者の方によれば、戦時中に父親が掘ったとのこと。
隣にもう一つ壕口がありますが、こちらは閉塞。二つの壕はコの字型に繋がっているということですが、確認できませんでした。
壕内を見学させていただきました。
「虎亀陣地交通壕」
旧八千代旅館の北側に残された交通壕跡です。岩をくり貫いて作られています。向こう側が見えるのは、山の斜面の補強工事で半分ほどの長さになってしまったからです。2006年に書かれた『三重県の戦争遺跡』では、珍しく木杭が鳥居状に残されているということでしたが、残念ながら木の杭が散乱しているだけでした。
虎亀陣地には二十五粍機銃が置かれており、かつては砂浜だった神島漁港に上陸してくる敵を迎撃する予定でした。ここにコンクリでできたトーチカがあるみたいですが、みつかりませんでした・・・
「ひじき」
酢で和えるとおいしいのだとか。
「忠魂碑と紀元二千六百年記念碑」
当時小学校四年生だった方に話を聞きました。戦時中には神島の若い方々も出征し、戦死された方も大勢いました。この方は、船着場で整列して白木の箱を迎えたそうです。痛ましいことには、戦死者の死亡診断書を鳥羽まで受け取りに行く際に、敵機の機銃掃射を受けて亡くなった人がいるのです。今でこそ連絡線で半時間の鳥羽ー神島間ですが、当時は手漕ぎ舟で半日もかかりました。広い海の上で隠れる場所もなく、海を渡るにも命がけでした。昭和二〇年の中京地区の空襲の際には空が真っ赤に燃えて、夜中でも昼のような明るさだったといいます。
のどかな神島にも戦時を思わせる多くの遺構が残っています。監的哨をはじめ、穏やかな島の各所に突如として軍事拠点時代の遺構が現われますが、それらはこの島の雰囲気にはあまりに異質に感じられます。