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京都大学戦争遺跡研究会(2015-2016)

 戦争遺跡研究会は、主に戦争の記憶を後世に継承するための活動に取り組んでいます。活動内容は、戦争体験者からの聞き取りに加え、所謂「戦争遺跡」と呼ばれる明治~昭和までの戦争に関する遺構の調査研究などを行っています。 当サイトでは研究会の活動で収集した資料の一部を公開しています。調査能力や専門知識に乏しいため、掲載している情報について事実誤認等があるかと思いますが、誤りを発見した際にはご指摘していただければ幸いです。それから、掲載している遺構の写真や体験者の証言は許可を得て掲載しているものですので、無断転載はご遠慮ください。 御用のある方はyukio0118(アットマーク)gmail.comに連絡下さい。 twitter @senseki3 2017年以降の活動はコチラ→ http://senseki.kyotolog.net/

松本 歩兵第五十聯隊

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松本 歩兵第五十聯隊

歩兵第五十聯隊

長野県松本市には歩兵第五十聯隊が駐屯していました。五十聯隊は支那事変やマリアナ諸島で絶望的な戦いを前に奮戦しました。



現在、信州大学のキャンパス内には兵営時代の糧秣庫が現存しています。

▼かつての五十聯隊正門


現在は信州大学の通用門になっています。
ストリートビュー

糧秣庫はキャンパス東側にあります。


▼陸軍標柱


▼門柱の一部。こんな姿に


▼これも五十聯隊関連の遺構だと思いますが、厨房跡の一部でしょうか。


▼射撃場へ行く兵士が通っていた街道。


▼市内を行進する五十聯隊


 歩兵第五〇聯隊の遺族の方から、現役兵であった方のお話を伺うことができましたので、ここに紹介させて頂きます。時代の荒波の中、唯唯諾諾とそれに流される人間がいる一方で、どのような境遇でも確固たる自己を貫徹する、堅牢な精神の持ち主が少なからず存在します。ここで紹介するのはそのような人物の一人であり、そのエピソードを、ご家族の了解を得て今回掲載させて頂きました。証言内容を一部読みやすいように改変しましたので悪しからず。

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<<歩兵第五十聯隊 曹長 松山精一郎氏>>

▼下士官時代の松山氏

 長野縣上水内郡芹田村栗田(現・長野市栗田)出身。明治四十二年六月生まれ。小学校での代用教員を経て、徴兵検査に甲種合格し、召集に応じること四回。度重なる武勲により、多数の感状並びに勲章を授与さる。まず昭和六年の松本聯隊の上等兵時代に、重機関銃の組み立て、分解、精密射撃において優秀な成績を残し、聯隊長より表彰されている。その後も多数の感状を受けているが、とりわけ昭和二十一年の復員に際する部隊長からの感状というのは、氏の人間味あふれる調和的な性格を象徴しており、この感状こそ、アナーキーにおける真の人文主義の記念碑である(後述)。多数の感状や勲章を受けていることからも分かるように、氏は極めて多才であった。銃剣術道や馬術の達人であり、モールス信号等の習得にも余念がなかったが、精一郎氏のこのようなマルチな才能は部隊内でも有名で、多くの上官から「うちの隊へこい」と誘われていた。


▼木賃宿の布袋屋に展示されている同氏ゆかりの品々。誠に保存状態が良く、現在でも使用に耐えそうです。氏が物を大切に保管していたことが伺えます。

▼五十聯隊時代の表彰状


 聯隊の駐屯先はいずれも中国大陸で、現地人とも親しく交流して友好関係を築いていた。街を歩いていると「松山サン、松山サン。」とよく声をかけられた。昭和二〇年頃は武漢地区の警備と治安維持に当たっている。下士官時代、実戦において、部下に射撃目標と距離を伝えて機関銃を撃たせたところ、どうやら目測を誤っていたようで、百メートルほど先にいた敵に弾が届かずに、かなり手前の方に着弾してしまった。そのために上官から、「松山のバカヤロー!!」と叱責された。別の折に、敵との銃撃戦の最中、隣に伏せていた戦友が撃たれ、ガクリとうなだれた後に絶命したのを目の当たりにした。当たり処が悪かったのだろう。従軍中は、文字通り死と隣り合わせの毎日であった。夜間行軍中には歩きながら寝ることもしばしばあったが。或る時に、行軍中に部隊とはぐれないように軍馬の尻尾を掴んで眠ったところ、目が覚めると周りに誰もいなくなっていた。敵中に一人で孤立していたが、どうにか友軍を追求し、追いつくことができた。このような長距離の行軍では足によくまめができたが、そこにはヨードチンキを流し込めばすぐによくなる。戦場には上等なカメラを持ち込んで、戦線の様子や戦友の姿を多数写真に収めている。残念ながらそのカメラは盗難にあって紛失してしまったが、氏は温厚な人柄であったので犯人を恨むようなことはなかった。召集解除で一時帰国し、勤務校の教壇に立っていた時、生徒たちに軍刀を抜いて見せると、皆大変喜んでいた。馬術の達人でもあったが、鞍を付けずに裸馬に乗ると、これが非常に難しく臀部を痛めてしまう。

▼梅花を愛でる同氏。「梅と兵隊」の「覚悟をきめた吾が身でも、梅が香噎ぶ春の夜は、戦忘れてひと時を」という歌詞を思わせます。

 所属していた独立歩兵第六十四大隊の最終位置は杭州だった。戦争が終わり、兵隊が大陸から復員船で帰ってくる途中、他の部隊では意地悪な上官に対するリンチ事件や殺人事件などが頻発していた。このような戦後の復員船内での「上官殺し」は、当時頻繁に発生している。しかしながら、氏の所属する部隊ではそのような逆襲や反乱は全くなく、皆が無事に整然として本土に帰還したのである。果たして如何にしてそのようなことが可能であったのか。
 そもそも日本陸軍という組織では、階級が違えば待遇も異なり、階級によって食べるものすら違う。上官の命令は天皇の命令であり、上官は部下に対して絶対的な権力を誇示していた。階級というものが絶対的に軍隊を規定し、これに逆らうことは許されなかったのである。上官の中には、このような権力を濫用し、執拗に部下をいじめた者が多く、虐げられた下士官兵たちの内には長年に渡って怨恨の念が蓄積されていった。しかしながら、戦争終結とともに、このような軍隊内の「階級」という絶対的ヒエラルキーの鎖がはじけ飛んでしまった今、忽ちにして最底辺で虐げられていた兵隊たちの怒りが爆発することになった。あちこちで部下が上官に反抗し、手榴弾を投げたり、船から突き落とすなどの蛮行が見られた。ある復員船内では、意地悪な上官をドラム缶に詰めて海に放り投げたというエピソードもあり、或いは、リンチして甲板で打ち殺したという話もある。閉鎖された船上は、凄惨な復讐劇の舞台になってしまった。しかしそのような中にあっても、階級を超越した仁徳と調和の精神を発揮して、引揚までの船上での秩序を維持したのが精一郎氏であった。階級による威光に頼らず、部下や上官を掌握し、穏便で迅速な復員を実現させたのである。その功績は感状という形で今日まで残っている(写真を参照)。どうやら、復員船内において上官と部下の間で深刻な対立が生じたが、その調停において同氏が大きな役割を果たしたようだ。そもそも、何事もなく平穏に復員が済んでいれば、このような感状を発行することもない。氏は感状に関して詳しいことはほとんど語っていないが、剛毅な人間というものは得てしてそういうものであり、自己の手柄について嬉々として語ったりはしない。終戦後に連隊長から感情が授与されるなどということは例外的なことなので、船上において相当の活躍を果たしたものと思われる。

▼感状。氏は、戦場での武功や隊内での業績を評価されて押し戴いたどの賞状や勲章よりも、この感状を頂いた時が一番嬉しかったと言い、またそれを大切に保存していたようです。このことが、氏の博愛的で平和的な性格を裏付けているのではないでしょうか。


 戦後は小学校で教員を務め、青少年の育成に努めた。氏は、しきりに「平和な世の中が一番いい。戦争は絶対にいかん。」と言っていた。

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現在、松本市立博物館にて「第6回戦争と平和展 <戦争の記憶と記録から平和を考える>」が開催中です(九月二五日まで)。



▼五十聯隊の貴重な写真など


▼航空機の増槽


第6回戦争と平和展 <戦争の記憶と記録から平和を考える>
http://matsu-haku.com/matsuhaku/archives/603

並びに、松代ゲストハウス布袋屋にて戦争展を開催しています。是非ご覧になって下さい。


布袋屋
http://hotei-ya.net/

ご協力いただきました皆様、どうもありがとうございました。

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