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京都大学戦争遺跡研究会(2015-2016)

 戦争遺跡研究会は、主に戦争の記憶を後世に継承するための活動に取り組んでいます。活動内容は、戦争体験者からの聞き取りに加え、所謂「戦争遺跡」と呼ばれる明治~昭和までの戦争に関する遺構の調査研究などを行っています。 当サイトでは研究会の活動で収集した資料の一部を公開しています。調査能力や専門知識に乏しいため、掲載している情報について事実誤認等があるかと思いますが、誤りを発見した際にはご指摘していただければ幸いです。それから、掲載している遺構の写真や体験者の証言は許可を得て掲載しているものですので、無断転載はご遠慮ください。 御用のある方はyukio0118(アットマーク)gmail.comに連絡下さい。 twitter @senseki3 2017年以降の活動はコチラ→ http://senseki.kyotolog.net/

那賀川鉄橋空襲

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那賀川鉄橋空襲

アザラシの「なかちゃん」で知られる那賀川には、昭和十一年に鉄橋が架設されました。昭和二十年七月三〇日、この橋を通過中の汽車が米機による銃撃を受け、八〇名以上が死傷しています。

 

▼阿波中島方面より
  

▼拉げた鉄骨


▼弾痕


▼弾痕を補修した後も見られます。(右下)
 

▼橋脚にも破損部があります


電池切れで写真には収められませんでしたが、他にも無数の弾痕が「2」の部分を中心に残っています。

▼車輛最後尾はこの踏切付近で止まりました
 

<<列車に乗り合わせたT氏の証言>>(徳島県戦没者記念館第一七回語り部事業より)

T氏は昭和六年羽ノ浦町生まれで、昭和二〇年七月三〇日、女学校一年の時、那賀川鉄橋空襲に遭いました。

 T氏は富岡の祖母の家に行くために、牟岐行の四輌編成に乗車。戦時中は列車の運行数が限られており、次発は二十三時間後であった。いつもは最後尾の車両に乗るが、この日はたまたま一輌目に乗り合わせた。羽ノ浦駅は乗車する人たちでごった返しており、順番を飛ばして乗り込もうとする者や、押されて怒号をあげる者などで大騒ぎだった。果たして、無理矢理乗り込んだその男性が助かったのかどうかが、非常に気になるとT氏は述べていた。四輌編成の車輛に乗客を満載した汽車は、ゆっくりとホームを出発。そして一六時頃、列車が那賀川鉄橋に差掛かったまさにその時、二機の米軍機による機銃掃射と爆撃を受ける。「ダダダダッ」という地鳴りのような音とともに列車は停止し、その後も反復攻撃を受けた。T氏の隣りの男性は、すぐに一輌目車輛後部のデッキから鉄橋を飛び越えて川に飛び込んだ。他にも何名かが飛び込んだが、中には海岸まで流された人もいた。T氏は鉄橋の下の川の流れを見てこれは飛び込んだら到底助からないと考えた。しかし、思いきってタラップに足をかけたところで、「やめとけ!」と怒鳴られ、飛び降りるのをやめる。そこで、他の乗客らと共に、まだ川に差掛かっていなかった車輛最後尾を目指す。

▼二両目が停車したと思われる箇所


 一両目より後ろの車輛は敵機の攻撃により激しく損傷しており、中は血の海、地獄絵図であった。あちこちから「イタイ、イタイ」という声が聞こえてきた。通路にはひっくり返った座席の下敷きになった人や血まみれの人々が倒れており、赤ん坊の泣き声が聞こえる。転んだ拍子に誰かに足を掴まれるが、「ごめん。ごめん。ごめん。」とその足を振りほどき、一心不乱に後ろを目指す。恐ろしい思いをしながらも、なんとか一番後ろにたどり着き、高架になっている線路に降りようとする。けれども、凄惨な現場を目の当たりにしたことと、鉄橋越しに見える遥か下方の地面が恐ろしく見えて、腰が抜けてしまった。後ろから急かされるが、なかなか降りられずにデッキで蹲っていた。すると、偶然乗り合わせていた、見能林から来ていた数学の教師が「大丈夫か!よかったなあ!」とやってきて、列車から線路に下してくれた。その時、安心して涙があふれてくる。先生は歩道まで手を引いて連れていってくれた。「一人で帰れるか。いけるか。」と尋ねられ、「はい。」と返事をすると、先生はまた列車の方へ走って行った。
 沿線の道を歩いて羽ノ浦まで帰る途中、負傷者がリアカーに乗せられているの見る。片足を負傷した人がリアカーに掴まりながら、歩いていた。追い抜きざまに乗せられている人に目をやると、皆顔まで血まみれであった。さらに少しばかりいくと、髪を乱した女性が、まるで夢遊病者のようにふらふらと歩いていた。負傷者の多くは共栄病院か近くの個人医院に運ばれたが、この空襲によって三二名が死亡し、五〇名以上が負傷した。
 ようやく家に帰ると、心配した父が風呂を沸かして待っていた。母は、列車が空襲を受けたという知らせを聞き、現場へ急行したために入れ違いとなっていた。母の方は、自分が見当たらなかったことから、近くの工場に安置された筵を被せられた遺体を一人づつ確認し、我が娘ではないかと気が気ではなかったという。
 戦後八〇年が過ぎようという今になって、ようやく当時のことを語れるようになった。それは子や孫にも話していない、口に出すことなと到底できない辛い体験であった。しかしあの惨劇を風化させてはならないという思いから、最近語り部として空襲体験を語るようになった。

▼F4U戦闘爆撃機





<<現場近くに住むI氏の証言より>>

I氏は鉄橋近くに住んでおり、当時は旦那が出征しており、家には一人だった。

 空襲当日、近所の人から「汽車がやられた!」という知らせを受け、現場へ走る。その頃は壮年の男性は全て出征しており、町に残っていたのは女ばかりだった。鉄橋の上を逃げている人にも、米機は容赦なく銃撃を加えていた。列車はひどく損傷しており、辺りには血まみれの負傷者がうずくまっていた。足のない赤ん坊や頭を撃たれた人など、筆舌に尽くし難い惨状であった。物資のほとんど無い中で救護活動を行い、近くの工場へ負傷者を運び手当てをする。ほどなくして、共栄病院から医者や看護婦がやってきて、重傷者はそちらに収容された。軽傷者は近くの医院で手当てを受けて家に帰った。列車内部や、鉄橋の下の地面や川には、負傷者の遺体の一部が散乱しており、血だまりができていた。川は血によってどす黒くなっており、まさに血の池地獄のようであった。手や足の肉片などの遺体の一部は拾い集められ、その日の夕刻、西光寺にて死者と共に供養された。

 戦時中の辛い体験を、無理を言って話していただいたことは大変申し訳なかったと思います。このような貴重な証言を聞かせて頂き、誠にありがとうございました。



こちらの方が米軍の戦闘詳報を調べております。
http://mt1985.cocolog-nifty.com/naval_strike/2014/11/730-pm-vbf-689-.html

攻撃機はF4Uであり、小松島の水上機基地を攻撃した帰りであることが分かります。

▼橋のたもとにある平和の碑




かつての惨劇を後世に伝えていくこと、死者の霊を弔う行うことは後世に生まれた者の勤めであると思います。当時のことを知る人がいなくなる中で、那賀川鉄橋は今なお沈黙の語り部として、我々に戦争の体験を語ります。
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