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京都大学戦争遺跡研究会(2015-2016)

 戦争遺跡研究会は、主に戦争の記憶を後世に継承するための活動に取り組んでいます。活動内容は、戦争体験者からの聞き取りに加え、所謂「戦争遺跡」と呼ばれる明治~昭和までの戦争に関する遺構の調査研究などを行っています。 当サイトでは研究会の活動で収集した資料の一部を公開しています。調査能力や専門知識に乏しいため、掲載している情報について事実誤認等があるかと思いますが、誤りを発見した際にはご指摘していただければ幸いです。それから、掲載している遺構の写真や体験者の証言は許可を得て掲載しているものですので、無断転載はご遠慮ください。 御用のある方はyukio0118(アットマーク)gmail.comに連絡下さい。 twitter @senseki3 2017年以降の活動はコチラ→ http://senseki.kyotolog.net/

鈴鹿海軍工廠

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鈴鹿海軍工廠

三重県鈴鹿市は、戦時中の昭和17年12月1日 に 鈴鹿郡5つの村、及び河芸郡9つの村が合併して発足しました。「鈴鹿」という地名の由来は、定かではありませんが、既に平安時代の『和名類聚抄』國郡部の巻に「伊勢国すゝか郡云々」という記述があります。

 今回は鈴鹿海軍工廠関連遺構を紹介します。こちらの工廠では、主に航空機搭載用の機関銃を製造していました。

▼鈴鹿工廠製の三式十三粍固定機銃
まず鈴鹿海軍航空隊の門柱と歩哨小屋が移築され、保存されているということですので、行ってみます。

▼戦友会によって建立された記念碑があります。
 

▼門柱と歩哨小屋です。
 

▼扉はオリジナルではありません。
 

▼かつての航空隊門柱は、現在も鈴鹿医療技術大学の門柱として働いています
 

▼『三重の戦争遺跡』によれば、射撃場跡地が残っているということでしたが、ソーラーパネルで埋め尽くされていました。
  

▼かつてはここに立派な格納庫があったのですが、更地になっていました。

地元の有志が保存に尽力したようですが、行政側の理解が得られなかったようです。もし残っていれば、極めて貴重な歴史的資料であったことに加え、平和学習の教材として大変優れたものにもなったと思うのですが、こうなってしまってはどうにもなりません。非常に残念です。


▼鈴鹿の原風景


▼着弾場です。現在は廃材置き場になっています。


▼裏側から





▼火薬庫跡

こちらの火薬庫ですが、どう調べても所有者の方が分かりませんでした。もし問題があれば消去致します。事後報告になってしまいすみません。

▼ちょっと失礼します
   

▼火薬庫2
    

    
▼失礼します。



▼火薬庫の面する奈良池


▼火薬庫1の上部。住吉神社の境内から行けます。
 
▼通気口がみえます
  
   

▼鈴鹿海軍工廠の銘板(移設)



▼鈴鹿海軍工廠火管圧填工場跡

 
圧塡(あってん)とは粉状のトリニトロトルエンやPBX爆薬などに高い圧力をかけて固化させて固体爆薬を作り出す作業で、砲弾や爆弾などに火薬を充塡する方法として行われている。(wikipedia)

▼弾薬庫跡



鈴鹿サーキットで有名な鈴鹿市ですが、ここがかつて軍都として栄えたことを知る人は少ないでしょう。僅かに残された当時の遺構から、私たちは往時の姿に思いを馳せることができます。


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