戦争遺跡保存ネットワーク四国の第七回香川大会に参加しました。
JR丸亀駅付近集合で、まず防空壕の見学に向かいます。
▼秋寅の館
▼「秋寅の館」館内に保存されている防空壕
<<A氏の証言>>歩兵第四四連隊
A氏は高知県出身だが、補充要員として丸亀にあった歩兵第四四連隊に入隊し、護土(ごと)部隊の一員として本土防衛の任に就いていました。現在の歩兵第四四連隊跡地には公的施設が軒を連ねています。
入営後すぐに、本土決戦準備のために現在の高知県香南市野市、大日寺付近で陣地構築を行う。物部川の東に対戦車壕を掘り、連日、対戦車訓練を行う。訓練といってもアンパン地雷と呼ばれる特攻兵器で戦車の模型に肉薄するだけである。幸い敵は上陸することなく終戦を迎えたが、自分と同年代の学徒兵の手記などは今でも辛くて読めない。
第一次世界大戦にて捕虜となったドイツ兵は、一部が丸亀収容所に収容される。(後に板東に移送)
▼丸亀俘虜収容所となった本願寺塩谷別院
▼ほとんど当時のままの姿をのこす
▼丸亀俘虜収容所に関する説明をうける
学芸員の方の話では、俘虜の待遇は悪くなく、寺の床下に自室をこしらえる者や、音楽の演奏を行う一団もみられたようです。もちろん、捕虜には給料も支払われていました。他にも収容所の外で写っている捕虜の写真もあります。非常に短い期間しか収容所として機能していませんでしたが、丸亀俘虜収容所における俘虜に対する人間的な扱いは、板東俘虜収容所のようにもっと知られるべきだと思いました。
▼JR多度津工場
▼西条海軍航空隊の格納庫と言われているもの。
列車の車体修繕のために移築されたそうです。
次に、詫間の民俗資料館へ移動し、戦争体験者から話を聞きます。
▼川西飛行機に工員として勤務したN氏と水上偵察機「紫雲」のスピナーキャップ
▼水上偵察機「紫雲」
▼二式大型飛行艇の予備部品
▼翼端灯?給油口?どなたか分かりませんか?
上記の二つともかなり貴重な資料だとおもいますが。。他にも航空隊関連の備品が多数展示されています。
三豊市詫間町民俗資料館
http://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/shiryokankyougikai/32_taku-min.htm
<<N氏の証言>> 川西飛行機養成工員
N氏は川西飛行機の養成工として終戦まで勤務しました。
川西飛行機の鳴尾工場で試作機一号機の製造を行い、ジュラルミンの焼き戻しを行う作業を担当する。水上戦闘機「強風」、艦上戦闘機「紫電」「紫電改」、二式大型飛行艇、並びに水上偵察機「紫雲」などの試作機をつくった。部品の規格などがまちまちであったり、部品がちびていたりして組み立てに苦労した。特に翼内機銃は構造が複雑であったので大変だった。勤労動員の女学生や学生を除き、養成工は20人ほどいたか。食糧事情が酷く、ろくなものが食べられない中で7-17や12-9の勤務をこなさなければならなかった。もちろん残業も多かった。技師らと相談しながら造るのだが、完成した飛行機はジュラルミンの薄さなどがまちまちな箇所がありボコボコ飛行機だった。工作機械も道具もないのだからどうにもならない。丸亀の工場にはジュラルミンがたくさんあった。
昭和十八年頃になると、物資や部品の輸送が滞りはじめ、工期が遅れることがよくあった。工期が遅れた場合、事情の如何に関わらず「気合がたらん!」とバッターや鉄拳制裁をうける。頻繁にバッターをうけた為、今でも腰が痛い。そして何度も先輩工員や上司に殴られたために、歯はほとんど抜けてしまった。とにかくボロ雑巾のように殴られまくった。東条英機が首相の頃に視察に来て、興味深げに下から飛行機を覗き込んでいた。
昭和十九年末頃から、戦況が逼迫してきて工場も空襲を受ける。高射砲の打ち上げる「ズドッ」という重い音、そして高射砲弾の破片が降ってくるときの「バラバラバラ」という音が耳に残っている。ある日、慰問会で映画を見るということで、名古屋東小の講堂に工員たちが集められた。全員が集まった時、突然扉が封鎖され、海軍の軍人が現れた。「これより試験を行う。」ということで、1メートル30センチ以上の者は強制的に海軍に入隊させられた。幸い1メートル30センチ未満であった私は、他の何名かと共に帰宅させられた。入隊した者も、海軍にはもう船がなかったので戦地へは行かず、海軍に所属しながら工場に通っていた。
戦後は戦時中の古傷に苦しむ。ジュラルミンの大きな破片が脇の下からでてきたこともある。辛い環境であったが、気合と根性で乗り切った。人間は気の持ちようで、どのような過酷な場でも乗り越えられると考える。
養成工という過酷な環境で、終戦まで勤めを果たしたN氏の忍耐力と気合は相当なものであったと思います。話を聞いた後だと、杖をついておられる氏の姿が非常に痛々しく感じられました。何より、熟練工を徴兵して無為に死なせ、銃後で素人の養成工や女学生に飛行機を作らせるという無茶苦茶な国のやり方に疑問を感じました。生産調整や適材適所ということは当時あまり顧みられていなかったようです。
最後に詫間町に向かいます。
詫間高等専門学校の敷地はかつての詫間海軍航空隊でした。
▼海軍航空隊時代の門柱と語り部のK氏(右)。左はN氏
<<K氏の証言>>終戦時、国民学校5年生
K氏は終戦時、国民学校5年生であった。詫間町在住。
海軍八〇一航空隊は、もともと水上機の練習航空隊であった。零式水上偵察機、九四式水上偵察機、九七式大型飛行艇や二式大型飛行艇が配備されていた。二式大艇の修理工場は詫間の第十一海軍航空廠のみであった。今の運送会社の倉庫付近。千名程度が働いていた。滑走路は三本あった。大艇は一回の滑走で飛び上がれないことがよくあった。特に燃料満載時など。二回目は一回目の分だけ燃料が減っているので、なんとか飛ぶことができるようだった。航空隊の将校は休日に、トラックが迎えに来て、善通寺や高松にくりだしていた。
▼二式大型飛行艇
戦局が差し迫ってくると、水上機による特攻が実施され、八〇一空だけでも二五〇名が亡くなる。二式大艇は26機が失われ、14名が最大定員であるから、一機撃墜で一度に10名以上が亡くなる。零式水偵や九四式水偵でも多くの若い命が散っていった。梓特攻隊によるウルシー環礁への特攻を先導したのも、詫間空の二式大艇だった。先導する三機のうち一機は、淡路島付近で墜落している。昭和二〇年頃から詫間基地も空襲を受けるようになる。空襲の際は必ず背後の山側から敵機が現れ、バリバリと交代で機銃掃射とロケット弾攻撃を行った。シンガポール行きの二式大艇が航空廠で修理を受けるために停泊していたが、空襲の際、エンジンをやられ火を噴いていた。別の空襲の時、停泊していた二式大艇が敵機の攻撃を受け、水上滑走で逃げようとしたが、機銃掃射で大破する様子を目撃した。防空壕の入り口からは空襲の様子がよく見えた。敵機は順番に攻撃を加え、そのたびに高射砲が反撃しているようだったが、当たっている様子はなかった。敵機の機銃弾が海に刺さって「シュン、シュン」と音を立てていた。沖の方では着底した輸送船に陸軍の兵隊が機銃を据え付け応戦し、二名が戦死したものの、敵機を二機海中に叩き込んだ。
終戦後は飛行機が分解され放置されていたので、みんなでフロートなどに乗って遊んだ。
▼八〇一空のスロープ。現存するものは練習用。
▼奥の突堤の付近に実戦用のスロープがありました。
▼山側には詫間空の防空壕が残ります。
▼戦後に戦友会によって建てられた碑文
香川近代史研究会の皆様、並びに語り部の方々を含む関係各位、誠にありがとうございました。