「大津第九聯隊に関する戦争遺跡めぐり」に参加しました。
現在の皇子山運動公園の敷地は、かつての陸軍歩兵第九聯隊(明治八年から大正軍縮まで)や少年飛行兵学校(昭和十八年から終戦まで)でした。
陸軍歩兵第九聯隊遺構
▼第九聯隊正門跡
門柱などは戦後のものです。
▼火薬庫の周りの土塁
普通に歩いていたらまず気づきません。
▼土塁の角
▼土塁の向こう側には火薬庫の基礎が残っています。
▼山中の至る所にこのような瓦片が。
雨後の湿った道を進んでいくと
歩兵第九聯隊碑文があります。
戦後まもなくの間、軍隊関連のものが忌避された時代には、このような碑文は、山の中腹やお城の端などの目立たない場所にしか建てることができなかったそうです。今ではここに詣でる人もほとんどいません。
記念碑が、その土地の過去の出来事を常に身近なものとして想起させるという役割を担うものならば、このように人目に触れぬ場所に碑文を立てることによって、記念碑はその役割をほとんど果たすことができないと言えるでしょう。「臭いものには蓋をする」という平和教育のやり方で歴史から学ぶということが妨げられる時、結局また同じことを繰り返すことになってしまいます。
大津陸軍少年飛行兵学校遺構
▼大津陸軍少年飛行兵学校石碑
▼山中にひっそりと残る「若鷲の碑」
▼付近にある境界石
▼空襲跡の残る法明院
▼フェノロサの墓
▼寺からの展望。
現在は高層ビルが乱立しており視界が悪いが、琵琶湖を一望できるパノラマビュー。フェノロサがこの地に墓をかまえたのも頷ける。
▼境内の柱に残る弾痕。敵機の機銃掃射によるもの。
▼寺と軍の敷地の境界石。赤い塗料が残る。
<<N氏の証言>> 終戦時、国民学校2年
陸軍少年飛行兵学校では少年飛行兵が訓練をしていたが、交流があったのは一部の人間だけで、ほとんどみかけることはなかった。昭和二十年ごろには飛行機はほとんど飛んでいなかったように思う。
終戦とともに大勢の進駐軍がやってきて、日本軍と入れ替わりで駐屯していた。数百人はいたと思う。パンパンと呼ばれる兵隊向けの売笑婦もよそからやってきた。「MP」の腕章をつけた進駐軍がかっこよかった。
大津陸軍墓地
バイパス建設のため、規模は大幅に縮小されています。
日清、日露の頃までは個人墓がありますが、それ以後は戦死者の増大により、合同墓に葬られています。士官の墓は大きく上段にあり、下士官や兵卒の墓は小さく下段にあるので、すぐに見分けがつきます。
▼ロシア兵の墓(左)と支那兵の墓(中央、右)
ロシア軍のものは、移送中に死亡した捕虜をこの地に埋葬したことが墓石に彫られています。背面に「露軍第四狙撃聯隊第二中隊 列兵○○」と記してあるのが分かります。敵兵の墓が戦死者の墓と並んでおり、関心していたのですが、国道を建設する際に墓を移したということですので、元からこのように並んでいたのかどうかは不明です。
▼地元の方がお墓に花を供えています。