京都飛行場は京都府久御山町(田井、島田、森、市田、佐古、野村)に存在した逓信省(昭和17.4-19.8)及び陸軍(昭和19.8-20.8)の飛行場です。昭和十七年に、逓信省京都航空機乗員養成所として開設されましたが、戦争末期に陸軍に接収されました。
▼斜面に残る防空壕(後述)
<<名称に関して>>
まず米軍資料では「OGURA AIRFIELD」と呼ばれていたことが分かります。(Records of the U.S. Strategic Bombing Survey = 米国戦略爆撃調査団文書 ; Entry 55, Security-Classified Carrier-Based Navy and Marine Corps Aircraft Action Reports, 1944-1945)
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=ogura+airfield&viewRestricted=0
昭和十九年二月一日の「軍紀保護法施行に関する件中改正の件達」によれば、陸軍用地となった後、陸軍では「京都飛行場」と称されていたようです。(「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007840900、陸密綴昭和19年(防衛省防衛研究所)」)
ここでは差し当たって、「京都飛行場」という名称を用いたいと思います。
近鉄伊勢田駅を出発し、ウトロ地区を抜けて飛行場方面に向かいます。
▼ウトロでは、地区整備及び居住者移転計画が進行中です。
平成三十一年度の完了を目指して、古い建物の除去と公的住宅の建設、並びに道路整備が行われています。
▼ウトロ地区における京都飛行場時代の唯一の遺構「飯場(はんば)」です。第二期公的住宅完成までに解体される予定です。
この朝鮮人飯場は昭和十八年ごろに建てられました。
ちなみに飯場とは炊飯所のことではなく、長屋が集まった労働者用の宿舎のことです。一戸六畳ほどで、杉皮を張り合わせベニヤ板で仕切っただけの簡素な作りです。ウトロではこの建物のみが現存しています。
▼横側は崩れています。
▼中が丸見え
▼朝鮮人飯場側面
▼昭和50年ごろのウトロ地区(国土交通省空撮)
飯場が連なって並んでいるのがよく分かります。
・ウトロ年表
1940.04:京都飛行場建設工事起工式。
1941.08:京都府がウトロの土地を買収。企業名(日本国際航空工業)で登記。
1943某日:朝鮮人飯場ができる。
1945.08:日本の敗戦により、飛行場建設中止。
1987.03:日産車体(株)がウトロの土地を売却
1989.02:「建物収去土地明渡」訴訟提起。原告(有)西日本殖産。
2000.11:最高裁の上告棄却により、住民全員の敗訴確定。
2007.12:国土交通省、京都市、宇治市が行政側の連絡協議組織「ウトロ地区住環境改善検討
協議会」を発足させる。
2010.05:一般財団法人ウトロ民間基金財団(地元)と(有)西日本殖産が土地売買契約締結。
2011.02:一般財団法人ウトロ財団(韓国系)と(有)西日本殖産が土地売買契約締結。
随所(個人ブログやフリーライターの記事など)で、ウトロの朝鮮人(当時は日本国籍)は「京都飛行場建設のために無理やり連れてこられた。」という話を耳にしますが、これは誤りで、元々こちらには渡日した朝鮮人労働者が住んでおり、その人たちが飛行場建設に従事したわけです。その後、飛行場建設に従事する朝鮮人の作業員が逐次増員されていき、最終的に千三百人前後にまでなったと言われています。終戦後、突然日本国籍を剥奪され、途方に暮れ、取り残された人達は、度重なる国や地方自治体との紛糾を経て今日に至りました。
現在、65世帯160人がウトロ地区に住んでいますが、公的住宅入居に際しての高所得者の家賃負担増などが問題になっています。
次に、飛行場東端部を目指して進んでいきます。
古川に架かる橋を渡ると、町民プールや府立久御山高校がありますが、この一帯には巨大な格納庫や、修理工場がありました。現在、格納庫跡地は苺農園になっています。
ストリートビュー
飛行場を東から西に横断する形で進んでいくと、暗渠の一部が畑の中に残っています。
▼暗渠
▼暗渠を辿っていくと排水路に突き当たります。
▼暗渠の近くにあるコンクリの構造物ですが・・・
遺構を探していると、全然関係のない廃屋やコンガラまで怪しく見えていけません。
ストリートビュー
▼直線状に張り巡らされた水路は、飛行場の外郭線を形成するなごりです。
▼飛行場の最北西部
▼飛行場北端にあたる最終末端部。
ストリートビュー
現在の淀総合運動公園には、飛行場の関連施設が軒を連ねていました。
今は記念碑以外、当時を偲ばせるものはありません。
▼九五式一型や三型練習機が訓練に使用されていました。
▼記念碑
<<T氏の証言>>終戦時、御牧国民学校五年生
戦時中、巨椋池干拓でできた土手に南瓜を植え、畑作業に従事した。授業も受けず、鎌や鍬でひたすら「勤労報国」にがんばった。飛行場建設に際しては、市田に在った家の田んぼを二反ほど寄付した。近辺で飛行場に田んぼを全部とられた人は、大根飯しか食えないほど困窮していた。飛行場には、二枚プロペラの赤とんぼが堀の縁にずらりと並んでいた。
終戦後、進駐軍が二年間ほど駐留していた。木津川に泳ぎに行ったときに見かけた。家の者が炊事係として雇われていたことがある。現在の淀運動公園にあった飛行場施設は、一部が久御山中学校の校舎として使用されていた(現在中学校は移転)。大きな格納庫も、終戦後は60年代ごろまで残っており、上まで上がったり、広かったので中で遊んだりした。解体、あるいは移築された後も、格納庫の基礎部分はしばらく残っていたが、運動公園として整備される際に撤去されたようだ。
余談だが、昭和の初めごろ、久御山の円福寺に逗留中の竹久夢二がよく風呂を借りにきたらしい。
▼竹久夢二の逗留していたお寺です。
「夢二と当時円福寺の住職が昵懇であったことから度々夢二は円福寺を
訪れ、1926年には1ヶ月以上逗留し絵を残している。」
個人サイト「お寺の風景と陶芸」より抜粋
http://tempsera.at.webry.info/201404/article_20.html
清水寺二寧坂の竹久夢二・寓居の跡は知っていましたが、夢二がこの地まで足を運んでいたことは知りませんでした。
京都飛行場関連の遺構に、コンクリート製の防空壕があります。
所有者の方にお願いして、中を拝見させて頂きました。無理を言いまして申し訳ありませんでした。子供が中に落ちるなどすると危ないので、本来壕口には蓋がしてあります。
<<N氏の証言>>
この防空壕は、戦前からずっと当家の土地であった所に、戦時中に軍が造ったものである。親の話では、空襲の際などに飛行場の人たちが走ってきて退避してきて、中の無線機で、「ツー・トン・ツー・トン」と通信していたらしい。
無線機で交信していたということは、指揮所としても使われていたということでしょうか。
VIDEO
分かりづらい動画ですみません。
▼土と藪で隠蔽されている。
▼通気口があります。二か所。
▼通気口1(上部から)
▼通気口2
▼戦時中の建造物に多い、砂利が多いコンクリートです。
▼飛行場最北端にある玉田神社です。
▼日露戦争の祈念碑です。
「戦復紀念」というのはあまり見たことがありません。無事帰ってきた人を紀念して建立したのでしょうか。
<<参考文献・Webサイト>>
・池田 一郎 (著)、鈴木 哲也 (著)、平和のための京都の戦争展実行委員会 (編)『京都の戦争遺跡をめぐる (語りつぐ京都の戦争シリーズ 2) 』つむぎ出版、 1996年。
・大日本者神國也 さま:http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-1175.html
・空港探索・2 さま:http://airfield-search2.blog.so-net.ne.jp/kyoto-airfield
ご協力いただきました皆様、誠にありがとうございました。